浦和周辺:塾で伸びない中学生専門の家庭教師、塚田です。

織田信長

信長はバイオレンス&イノベーションの人でした。

【①軍事改革】

当時、兵隊の多くは農民が農作業をやりながら、戦をしていました。
(そのため、冬にかけて戦が多かったそうです)
それを「兵士」と「農民」を分けて、いつでも戦える傭兵(お金で雇われた兵士)の集団をつくったのが信長だったのです。
また日本で初めて鉄砲を取り入れた戦をしたのも信長なのです。

【②仏教の弾圧】

浄土真宗などの、念仏を唱えれば救われるといった民衆に優しい、新しい仏教が流行し、信者もかなり多くいました。
仏教徒も他の地域の農民と同じで、武装集団となっていました。
戦のために城も持っている力のある集団。
その集団で一揆を起こし、加賀(石川県)の守護大名を倒し100年間自治を行っていました。

他の武士たちもその勢力を弱めたいと思っていましたが、仏教の集団ですので、呪われると思うと攻めずたかったのです。
(神社のお守りとかって、なんか捨てずらくないですか?そういう感覚だと思います。)
しかし、信長は気にせずに、お寺ごと焼き払ったのです。
これも、今までは他の人物がやってこなかったことです。

【③成果主義の人事】

今までの朝廷や武家政権は、会社でいう「年功序列」のようなものがあり、前からいた人や昔から付き合いのある人間が幹部として残っていました。
しかし、信長は成果を上げる人間は若かったり、付き合いが長くなくても重要なポジションに就かせ、古参でも成果を上げてない人間は首にするという人事をしていたのです。

豊臣秀吉

秀吉は一言でいうとスピードとコミュニケーションの人です。

①本能寺の変の直後、中国地方で戦っていた秀吉は、信長が亡くなったことを相手に伝えずに戦の中止する話し合いをし、すぐに引き返して明智を討ちました。
判断力の早さと交渉力があったからこそ、明智軍のもとに一番早くかけつけることができたのです。

②清須会議は信長の次の将軍を決める会議でした。
次の将軍は信長の兄弟になるといわれていました。
しかし、会議に参加する大名に前もって根回しをすること、次の将軍を「信長の息子」にしたそうです。将来を見越して昔から信長の子と仲良くなっておいたことを利用し、後から実権を握ろうとしたのです。


③朝廷の力を借りる

徳川氏と争っていたが、武力で倒すのは難しい状況でした。
そこで秀吉は、朝廷と仲良くなり関白という朝廷内の重要ポジションを手に入れることで、この状況を打開しました。

朝廷としての立場を使うことで、「民の平和のためにも争いをやめよう!武家としての力と朝廷としての権力を持つ私に任せてもらうことが、この国の民衆のためだ」としました。

その結果、徳川氏もと秀吉の言うことを聞かざるおえなくなり、豊臣秀吉が全国を統一しました。

信長の側近であった秀吉は、信長が途中で終わったしまった日本統一を成し遂げます。

その後、秀吉はアジア圏も自分たちの領土にしようと、朝鮮にも出兵しましたがうまくいかず、2度目の朝鮮出兵を行っていたころに亡くなりました。