浦和周辺:塾で伸びない中学生専門の家庭教師、塚田です。

徳川家康

徳川氏は武士と農民、両方の監視をおこないました。

【武士の配置】

親藩・・・徳川家の親戚一族
譜代大名・・・関ヶ原の戦いより前から徳川家に仕えた大名
外様大名・・・関ヶ原の戦いの後から徳川家に仕えた大名
大名を三つに分けます。
そして、信頼のある親藩を江戸や要所に配置し、譜代大名はその周辺、外様大名は遠くに配置することにより、謀反が起きにくい配置にしたのです。

【参勤交代】

戦国時代のような、戦の多い状態になってしまったのは、武士や農民、仏教徒がそれぞれ力をつけてしまったことが要因の一つです。
武士の勢力を削ぐために、毎年自分の領地と江戸を往復させたのです。
大名はみな江戸に人質として妻子を置いておかなけらばならないため、必ず参加せざる負えませんでした。

【一国一城令】

「一つの藩(国)には一つしか城を造ってはいけない」という法律を出しました。城を持つことは、戦になった時に有利になることを意味するために出されたのです。
(現在でいう、それぞれの国は核をもつ量を決まり通りにしないといけない、核兵器を勝手に作ったり持ったりしてはいけないという「核非拡散条約」のようなものです)


【土地売買禁止令と分割相続禁止令】

歴史をただると、公地公民制が崩れ、農民が私有地を持ったことから、武装する農民を生み出し、武士となっていったわけです。
土地の売買と相続を禁止することで、有力なものが土地や力を持つことを防ぐことができるというわけです。

【五人組】

農民が五人で一つのグループとして、なにか問題を起こすと全員の責任となる仕組みを作りました。
こうすることでお互いがお互いを監視することで、年貢を徴収しやすくなりますし、反乱もおきにくくなります。

徳川家康は歴史に基づいた、非常に合理的な管理を行っていたのです。
これらの制度が非常に国を統制するためにすぐれた制度だったため、江戸幕府は260年間も続いたのです。

江戸時代の流れ

※ここの部分は「中学歴史が面白いほどわかる」の内容も多く取り入れています。

【徳川綱吉(5代将軍)】
「生類憐みの令」で世間は混乱。小判の純金の含有率を下げ、小判をすりまくり、お金の価値が下がり物価が高騰。またも混乱。

【新井白石(6代将軍の学問の先生)】
綱吉のときに下がった小判の純金率を元にもどして、経済を立て直そうとしたが、急にやり過ぎたため、またも混乱した。

【徳川吉宗(8代将軍):「享保の改革」】
・公事方御定書という、裁判の基準となるものを作る。
・多く税を納めれば、参勤交代の期間を短くできるという「上米の制」
・民衆の意見を聞くための目安箱を設置
・飢饉が起きている中で、新田開発をすすめたり、年貢の取り方をあらためるなどし、米の価格を安定させ、「米将軍」と呼ばれる
徳川吉宗は、すごくいい政治をしたと歴史上評価されています。

【田沼意次(10代将軍の老中)】

株仲間の廃止など、商業の発展に努めた。商業を重視する政治であるため、農民からは評判が悪かった。そのときに、天明の飢饉、翌年の浅間山噴火による天候不順が起きる。
そのため、米の価格が高騰し、各地で一揆や米商人を襲う打ちこわしが起きた。

【松平定信 (吉宗の孫)「寛政の改革」】
田沼意次の政治の反省から、農業中心にする政治に変える。
倹約令を出し、ぜいたくを禁止したり、出版や政治批判を取り締まったため人々の反感をかう。
とにかく取り締まりの厳しい、堅苦しい改革であったため、贅沢を好む当時の将軍であった家斉と対立し、やめることになる。

【徳川家斉(11代将軍)】
財政のことはお構いなし。奥さん40人いて、55人子供産む。浪費しまくる。役人たちも贅沢して財政はボロボロとなった。

【水野忠邦「天保の改革」】 
厳しくして、財政を立て直そうとしたが、家斉の影響で緩みまくった役人たちの反感かって、失脚。