浦和周辺:塾で伸びない中学生専門の家庭教師、塚田です。

youtubeでは、さまざまな授業を見ることができます。
そのなかでも、オリエンタルラジオの中田敦彦さんの授業がわかりやすいですし、めちゃくちゃおもしろいです!!

今回から、「中田敦彦のyoutube大学 エクストリーム授業 日本史編」
から学んだ、歴史の流れについて紹介していきます。

そもそも、なぜ歴史の流れを知っておくといいのか

歴史の流れを知っておくメリットは二つあります。

ひとつは、歴史の勉強をするときに役立つからです。
歴史の細かい部分を学ぶ前に、大まかな歴史の全体像を知っておけば、学んでいる歴史が他の時代と比べてどのような特徴があるのかわかります。
他の時代を知っているからこそ、比較することができ印象に残りやすくなるのです。
また、歴史は繰り返すものです。例えば、時代が変わるときには、政治内部で内輪揉めが起きたり、災害があることがキッカケとなり政治が乱れるなど、パターンがあるのです。
そのパターンを知っておくことで、各時代の出来事がしやすくなります。

もう一つは、生きていく上で役に立つからです。

学校のテストとしての勉強は、いかに人物の名前を覚えるか、出来事の名称や順序を覚えるかが重要ですが。しかし、「名称を正確に覚えること」は生きていく上で重要ではありません。それに、詳しく覚えても復習する機会がなければ忘れていってしまうでしょう。
先ほど言ったように、歴史にはパターンがあります。
そのパターンは、今後も変わらずに続いていく可能性が高いのです。すると、日本のこれからの時代を考えるときに、予測がしやすくなります。
また、歴史のパターンというのは日本だけではなく、外国でも共通のものですので、ニュースで海外の出来事を知ったときにも、その出来事の意味やその影響というのを考えるヒントになります。

国ってどうやって始まる?

もともと、人々は狩猟して生活していました。
途中から、お米をつくるようになります。

お米は貯蔵できるますし、田んぼで作るので、定住するようになります。村として生きていくわけですね。

そこで起きるのが「争い」です。

他の村から米を奪いにくる奴がいたりなどの隣の村との争い事がありました。そこで、他の村と対抗するために村同士で同盟を組んだり、別の村に支配されたりなどが起きます。
こうして、村同士が集まり続けると小さな国となり、国がたくさんある小国乱立の状態となりました。

邪馬台国と大和政権という大きな国はあったが、、、

邪馬台国というかなり大きな国があったとされている。卑弥呼がいた時代ですね。

ところがここからの出来事は未知なのです。
卑弥呼の後継の女の人から手紙があったという記録を最後に、中国とのやりとりがなくなってしまっています。
(中国で南北朝という争いの時代だったのも影響しているのかもしれません。)

また、邪馬台国の支配地域が九州までなのか、近畿の方までだったのかもわかっていません。

そのため、邪馬台国の後に大和政権という国が治めていたことは、確かなのですが、
「邪馬台国が大和政権形を変えたのか」
「大和政権が邪馬台国を飲み込んだのか」
「どういう流れで大和政権に変わったのか」
は知られていないのです。

(ちなみに、漫画のワンピースでも空白の100といわれるものがあります。その100年に何があったのかの謎を解き明かすのもストーリーの楽しみになっていますが、その設定は日本の歴史からもヒントを得た可能性もあるのではないかと思います。)

日本の歴史は、まだまだわかっていないことが多いです。

大和政権は一人の王が統率した国ではない

大和政権は、国といっても今のように全国の戸籍があるわけでも、法律が全国で決まっているわけではありません。

小さな国の中でも、特に力を持っている(土地や武器、軍隊のような武装チームを持っている)国のリーダーが達が政治をしてる、連合政権という形態のものなのです。

そして、6世紀になるとその中の二大勢力であった蘇我氏と物部氏が争って勝利した蘇我氏が権力を持つ時代になります。

このあたりから、「日本書紀」という最古の歴史書に記録が残されています。そのため、ここからはそれまでの時代に比べると、出来事が詳しく教科書に載せられているのです。

(それまでの「邪馬台国」や「大和政権」の頃は日本書紀に記録が残っておらず、中国の歴史書の記録からわかったことと、後の調査でわかったことから推測されていました。なので、覚えるできごとや年数を覚える事項がほとんどないのです。)

ちなみに、「氏」というのは、チーム名のようなものです。
イメージでいうと、ジャイアンツやタイガースなどいくつかのプロ野球チーム(小さな国)がある中で、強かったのが「広島カープ」と「ソフトバンク」という二つのチーム(蘇我氏と物部氏)が争って、優勝した方のチーム(蘇我氏)が権力を握っていたという感じです。

蘇我氏と物部氏は新しいものを取り入れえるかどうかで揉めた

蘇我氏と物部氏はどうして対立したか。
それは、蘇我氏は当時、東南アジアの先進国で広まっていた「仏教」を取り入れようとしていました。「仏教をとりいれることで、国を統治しやすくなる。進んだ国のやり方を取り入れないと、おいていかれる」という意見。
一方、物部氏は「今までのやり方の方がいいに決まってる」という考え方。

このように、新しい考え方を取り入れるか取り入れないかで対立したのです。この対立の仕方は、別の時代でも繰り返し起きます。
(ちなみに、私たちの身近でもこういう対立ってありますよね?人間の心理は昔から変わっていないのです。)

飛鳥時代は蘇我馬子の時代

蘇我馬子と聞いても(え、、、名前、、、馬子って、、、)と思うくらいで(笑)あまりピンとくるような歴史上の人物ではないかもしれません。
でも、実はかなりやり手の人物だったのです。

ひとつは、元々は次期天皇になるはずだった別の家系の子を暗殺して、自分の姪っ子(後の推古天皇)を天皇にしてしまいました。
こうして自分の家系の子を天皇にして、裏で自分が政治を行っていたのです。

また、自分の姪っ子である推古天皇の補佐をしていたのがあの有名な「聖徳大志」です。それも、馬子が任命させたことであり、飛鳥時代は「馬子の時代」と呼ばれているほど馬子は重要な人物だったのです。

大化の改新の「大化」は日本初の元号。つまり今でいう「令和」のこと。

大化の改新は記憶に残っている人も多いかと思います。

(中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を倒したやつね!!、、、カマタリってなんだよ!!というようなやり取りになるところです)

大化の改新のおもしろいところは、実は「大化」というのは日本の初の元号だということです。
今は令和の時代ですが、約1400年前の「大化」からはじまったものなのです。
そして、「大化」という元号をつくるというのはどういうことか。
それは、「中国の元号は採用しませんよ。自分たちが日本という国でこれから中国や他の国とも対等な立場でやっていきますよ」という宣言のようなものでした。
当時の中国は、力で周りの国々を制圧していき、領土を拡大していました。
自分の国の元号を持つということは、日本にも近くの大国である中国が攻めてくる可能性が増えるという決断でもあったのです。

天智天皇(中大兄皇子)=中国でいう秦の始皇帝

公地公民:「土地はすべて大和政権のものとします!土地はすべて国からの貸し出しものです!お米などの税金払ってくださいね!」という政策や
律令制:「法律というルールで全国を管理します!法に従ってくださいね!」という政策を行ったのです。

つまり、それまで地域の有力なリーダーだった豪族(物部氏とか蘇我氏のようなチーム)の私有地を「国のものだ!!」とし、全部を天皇という一人のリーダー中心で全国を管理します!!ということ。

それまで分散していた権力を一つにまとめて、国を統率しようとしたのです。

これは、これは中国で秦の始皇帝と同じことをしたということです。
日本でいう「天智天皇」は、中国でいう「秦の始皇帝」。
天智天皇は日本版のキングダムなのです!!

このことを、歴史全体としてとらえると2つの興味深い視点があります。

ひとつは「中国と日本の進み具合が全然違う」ということ。

秦の始皇帝が中国を統一し、律令国家をつくったのは紀元前220年頃。
それに対して、天智天皇が律令国家をつくったのは645年(虫殺しの大化の改新で覚えた人も多いはず)。
日本で起きたことと同じことが、中国では800年以上前に起こっていたのです。
それだけ中国は当時の先進国だったのです。

もうひとつは、「統一と権力の分散」を繰り返していくということです。
一時的に始皇帝や天智天皇のような強力なリーダーが現れたとしても、その後、どこかで政治が乱れ、体制は崩れてしまうのです。そしてまた争いが起き、しばらくするとまた統一されてというのを繰り返します。

この「強力なリーダーによる統一」→「政治の乱れ」→「争い」→「権力の分散」→「強力なリーダーによる統一」
という流れは、日本でも中国でもヨーロッパでも繰り返す起きるものなのです。

このように歴史には、「今も昔も、国の場所も関係なく繰り返しているパターン」というものがいくつもあります。この法則のようなものを知ることが歴史の勉強の醍醐味だと私は感じています。

壬申の乱

天智天皇の次の天皇は、天武天皇でした。
しかし、天武天皇は蘇我氏を倒し、公地公民も行ったかなりカリスマ的存在。自分の息子を次の天皇にしようとしても、話が通ってしまうような状態でした。

しかし、強力な力で豪族から土地を奪い統制するやり方に不満を持っている豪族も多く、アンチも多かったのです。

そして、天智天皇が亡くなった後。
次は誰が天皇の地位につくなかをめぐって大きな争いが起きます。
それが壬申の乱です。

そして、そこで勝利したのは天武天皇でした。

天武天皇

天武天皇は、今の時代にも大きな影響を与える偉業をいくつもやっていました。

まず、それまでの日本は「倭国」とされていたのですが、ここで初めて「日本」という国を名乗るようになったのです。
そう、私たちの住んでいる国の名前「日本」という国号をつくったのは天武天皇だったのです。

それから、日本の歴史の記録をした「歴史書」を作るろうと言い始めたのも天武天皇です。
それまでのは中国の歴史書からの情報と日本の遺跡などで発見された一部の文章から推測されたもの。
それまでの日本には歴史の記録を残す文書がほとんどなかったのですが、ここではじめて「日本書紀」という日本初の歴史書がつくられたのです。

この「日本書紀」があるからこそ、私たちはこうして歴史について知ることができているのです。

歴史は同じ流れが別の場所で起きる

秦がはじめて中国を統一した時には、後に反感かって、大きな争いがあり、その後にできた「漢」はしばらくの間、安定した国でした。

天智天皇がはじめて日本を統治(公地公民や法律で国を治め、天皇中心のワントップ体制になった)あと、豪族たちから反感を買い、大きな争い(壬申の乱)が起きました。そして、その大きな争いの後にはしばらく安定した時代が続いたのです。

このように、中国でも日本でも時代は違えど、同じようなことが起きているのです。
「強力なリーダーシップでの統一」→「反感をかう」→「大きな争いが起きる」→「しばらく安定してた時期が続く」という流れも、国や時代を問わずに繰り返されていくものなのです。

奈良時代は仏教勢力の時代

当時の中国は唐という国で、仏教で国を治めていました。

日本も仏教で国を治めるといのをおおっぴらに行っていた時代です。
奈良の大仏を造ったのは象徴的な出来事ですね。

先進国の唐に習って、日本も同じように仏教で国を治めようとしました。

仏教の勢力が大きくなり、天皇の地位まで脅かしていた

道鏡というお坊さんがいました。

そのお坊さんは、当時の女帝に気に入られて、朝廷の中でどんどんと出世をしていきました。

そしてなんと、次の天皇になろうとしたのです。

結局、次に天皇になるはずだった者との争いに負けて天皇にはならなかったものの、お坊さんが天皇の地位争いに入ってくるぐらい、当時かなりの大きな勢力を持っていたのです。

平安時代

都が平城京から平安京に移ったところから平安時代はスタートします。

桓武天皇は仏教が国家に関わり過ぎていたため、今までの仏教を刷新したかった。

そこで、目をつけたのが最澄と空海。

最澄や空海は、「とにかくひたすら修行をさせる」という流派。
この教えなら、修行しなければならないため、政治活動する時間がないというわけです。
(そうすれば、天皇家が権力を握る時代に戻れる)と思い、最澄と空海の流派である新しい仏教を保護しました。

坂上田村麻呂

征夷大将軍は覚えている人も多いと思います。
「源頼朝が征夷大将軍に任命されて鎌倉幕府を開いた」で問題としてよく出されます。
そもそも征夷大将軍とはなにかというと、蝦夷(現在の東北地方)を征服するという意味で、「征夷」なのです。

はじめての大将軍が「坂上田村麻呂」なのです。
当時、まだ東北は大和政権の支配が及んでいない土地だったのです。
そこで、支配領地を広げて年貢を増やすために、蝦夷を制圧しようとしたのです。
その軍隊のリーダーが征夷大将軍だったのです。

坂上田村麻呂は東北を制圧し、支配領土を広げることに成功したのでした。

武士の誕生

そもそも武士はどのように誕生したのか。
それは、公地公民の頃にさかのぼります。

公地公民で土地は国が管理し、土地を与える代わりに税金を納めるという制度でした。
しかし、土地を与えても稲作がうまくいかないこともあり、土地から逃げてしまう農民も多かったのです。すると、税収が集まりません。
そこで、出したのが「墾田永年私財法」。

自分で新しく耕した土地は、自分の土地にしていいし、死んだら家族に引き継がせてOKということになりました。

そして、新しく自分の領地(荘園)を持つようになると、土地や農産物を奪いにくるものが出てきます。
奪いに来るやつらから土地を守るために自衛団(武器を持ってその土地を守るものの集団)を作るようになったのです。
この「自衛団」こそ武士のはじまりなのです。

そして、新しい領地が増えていくと、多くの領地を持つものも現れ、それにつれて自衛団の規模も大きくなっていったのです。

平将門

当時の日本の中心は関西。

関東の武士たちは関西にあった大和政権に制圧されて、重税をかけられていた。そこで、関東の武士たちは、反抗するタイミングを伺っていたのです。
その時に、武士たちをまとめる力をもっているリーダーが平将門でした。
平将門はタイミングを見計らって、朝廷に反旗をひるがえします。
しかし、その時にはまだ朝廷の軍隊の方が強かったため、敗れてしまします。
それからはまだしばらく、貴族の時代が続きます。

藤原道長

当時、摂関政治という、政治体制がありました。
通常は天皇の家系から、次の天皇が選ばれます。

もし、自分の娘が天皇と結婚すれば、天皇家の一族になることができるわけです。そして、天皇と娘が男の子を生めば、その男の子が次の天皇となります。

すると、「天皇の祖父」というポジションになり、天皇が若い時には自分が裏で実権を握ることがこの時代には可能だったのです。

藤原道長は、なんと自分の娘3人を天皇の結婚相手にしたのです。
さらにすごいのは、天皇との間に3人とも男の子を生んだのです。
例え結婚できたとしても子供が生まれなかったり、生まれても女の子であれば天皇になることはできません。それを3人連続でやってのけたのです!

(ちなみに、藤原道長は相当イケメンだったらしいのです。
娘に教養を習わせるためにあの「紫式部」が家庭教師をしており、源氏物語のモデルは藤原道長だったともいわれています。)

中田さん「スーパービューティーラッキーボーイが藤原道長なのです!笑」

白川上皇

道長が亡くなり、藤原氏一族も衰えた後。
次に政治権力を握ったのが白川上皇でした。

この白川上皇は院政で権力を握りました。
院政とは自分が天皇をやめて、息子に天皇が変わった後も「院」という天皇を補佐するポジションにつき、政治を行うものです。

(上皇とは会社でいう「会長」のようなものです。会社が社長を引退した後も、会長として会社の実権握っているようなものです。)

白川上皇は天皇3代にわたって上皇として、裏で政治の実権を持ち続けました。

平清盛

次に台頭してきたのは「平清盛」でした。

平清盛は天皇家の隠し子であり武士でもある、今までにいない経歴を持った人間でした。
天皇の隠し子であったため、ものすごく出世していき、武士でありながらはじめて太政大臣という朝廷の上位のポジションにつくまでになります。

最初は、自分たちの土地を守るところからスタートした武士は、ついにここまでの権力をもつ存在になっていったのです。

道長・白川上皇・平清盛の共通点

藤原道長「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」→「この世は完璧である。私の思い通りだと」

白川上皇「この世で思い通りにならないのは鴨河の水(よく氾濫した川)サイコロの目、山法師(上皇は仏教を信仰していた)の3つだけだ」

平清盛「平家にあらずんば人にあらず」

中田さん
「3人が言っているのは、要するに『自分はパーフェクトヒューマン』だといっているわけです。この3つの句を私は三大天狗発言と呼んでいます。
現代でパーフェクトヒューマンを名乗る私はとんでもない目にあうんだと思います。笑」

奈良~平安の時代

仏教の力でおさめようとしたら仏教の勢力に翻弄され、武士の力を使おうとしたら、今度は武士の勢力に翻弄される。
蝦夷(東北)を制圧して支配領土を増やしていき、法律の整備をして国家としての体制を作っていく。そんな時代。

これは、中国やヨーロッパでカトリックやイスラムの教えが民衆に影響を与え、やがてその勢力が国を脅かす存在になっていくのと同じ流れです。

歴史はやはり、別の場所でも同じことが繰り返されていくものなのです。

また、文化の面では「894年に遣唐使が廃止されたところから、日本独自の文化が発展していきました。

アジアでは周りの国々の影響を受けて文化が発展していくわけですが、日本の場合には近隣の国との交流がほとんどなかったため、「かな文字」「大和絵」「和歌」などの日本特有な文化が生まれたといわれています。

源氏と平氏ってなんなの?

武士はもともと自分たちの土地を守る自衛団だったのですが、その力はどんんどん大きくなっていきました。

ある時、朝廷内での権力争いがあり、その時に武士たちを争いに呼び寄せました。

(今でいう、兄弟で跡目争いしているところにヤクザ使っちゃったようなものですね。笑)

そのくらい、武士たちの勢力は大きくなっていたのです。
その武士たちの中での二大派閥が「チーム源氏」と「チーム平氏」でした。

鎌倉幕府は最初の武家政権

源氏が平氏を倒し、源氏が政権を持つようになりました。

朝廷が争いのために武士を使っていたはずが、武士の力が強くなり過ぎた結果、政権が武士に移ってしまうというのは、皮肉ですね。
これまでは、貴族が政治を行っていたのですが、源頼朝が鎌倉幕府を開き、ここからは武士が政治を担うようになります。

ちなみに、鎌倉幕府は1192年(いい国作ろう鎌倉幕府で覚えましたよね)だとされていたのが、現在は1185年として教科書に載っています。
これは守護や地頭を全国に配置したのが1185年を鎌倉幕府成立とするか、征夷大将軍となった1192年を鎌倉幕府成立と考えるかの差なのです。
私自身は、歴史の勉強は年号を覚えることよりも「なぜその出来事があったのか」「その出来事が今後どのような意味を持つのか」が重要なのではないかと思っています。

北条政子

北条政子は、頼朝の奥さんです。

頼朝の死後、なんと頼朝の奥さんである「北条政子」が執権という将軍を補佐するポジションにつき、政治の実権を握っていました。
(今度は奥さんが政治するってすごいですよね。安倍総理の次に、安倍総理の奥さんの安倍夫人が首相になっているような状態ですから。笑)

そして、後鳥羽上皇が武士の政治ではなく、今までのような貴族中心の政治に戻そうと、承久の乱がはじまります。
頼朝がなくなり、幕府の内部で争いが起き、ごたごたしている状況を見計らって挙兵します。

北条政子VS後鳥羽上皇です。
(ちなみに、上皇とは今でいう会長のようなものです。)

頼朝にも勝るほどのカリスマ性があり、揉めていた幕府内部を演説でまとめ上げ、勝利を納めます。

(北条政子は尼将軍と呼ばれていました。あだ名が「尼将軍」。尼将軍て。。。笑)

それからは落ち着いた政治が続きます。

元寇

モンゴル帝国が日本を攻めてきます。

学校では「モンゴルが攻めてきて、日本にはない武器や集団戦法を使ってくる相手に苦戦した」と教わったのを覚えているくらいで、
(あー、このときモンゴル攻めてきてたんだなー。戦い方は違うし、大変だったんだなー。)
くらいにしか思っていませんでした。

しかし、世界史の勉強するとわかるのですが、当時のモンゴル帝国は歴史上でも最強といわれている帝国でした。

モンゴル帝国は領土を拡大し続けていて、その支配領地がこちらです。

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びっくりするぐらい広いです。
これ全部、当時のモンゴルが支配していた土地ですよ??
中国全部どころか、アジアを超えて現在のドイツまで征服しています。

この巨大な国が、日本に攻めてきたわけです。

(絶体絶命。まだまだ日本は刀で戦ってますし。笑)

世界史的にみると、「日本間違いなく終わるでしょ!!」って状態だったのですが、日本が勝利しました。

教科書では、「暴風雨が来て、モンゴルの船が沈み勝利した」というニュアンスで書かれていますが、

・6~8月の3か月間で台風が来るのを予想していた。
・支配していてた朝鮮のあまり強くない兵隊が来た。
・日本の武士は荒くれものも多く強かった。
・戦いにかけての執念が強かった(首を取って掲げたら、普通士気が下がるのが普通なのに、日本は首を取り返そうとして狂ったように襲ってくる。)
・モンゴルも本気で攻めては来ていなかった。
など、たまたまではなく勝利したと最近の研究では言われています。

NEW仏教SIX

鎌倉時代で思い浮かぶものと言えば、「源頼朝」「義経」「北条氏」くらいだと思います。

鎌倉時代は、争いの多かった戦国時代に信長や秀吉などの多くのスターがいる時代ではありません。

しかし、争いがなかった分、今度は文化が花開く時代となるのです。

(江戸時代もそうだったのですが、争いが少ない時代になると文化が発展しやすくなります。)

特におもしろいのは、仏教の新しい流派がたくさん出てきたことです。
学校では、「最澄と空海がいて、それぞれ天台宗と真言宗を比叡山の延暦寺や高野山の金剛峯寺で開き、、、それから一遍の時宗や日蓮の、、、念仏をとなえると救われて、、、」
といったように、名前をなんとなくテスト前に覚え、その仏教がどのようなものかわからずに、なんとなく覚えた人も多いと思います。

実は、この仏教もひとりひとりの人間のキャラクターやその内容を見ていくとなかなかおもしろいのです。

(ここの部分は特に動画を見てほしいです。中田さんが話すのを聞くとおもしろいです。)

【NEW仏教SIX】

①法然
→ とにかく、南無阿弥陀仏を唱えろ。そしてら阿弥陀仏がすべて救ってくれる

②親鸞
→ 一回でいいです。忙しいでしょ?一回口にするだけでいいです。

③一遍
→ 踊り念仏 踊りながら唱えよう。 やったら札くれる。笑

④日蓮
→ 南無妙法蓮華経(ナムミョウホウレンゲキョウ)さえ唱えればいい。他の仏教をめっちゃ批判してる。口が悪い。

⑤栄西
→座禅&禅問答(座って自問自答してればいいです。)

⑥道元
→座禅だけ(ただ座っているだけでいい。)

この6人はなんと、修行はしなくていいっていう流派だったのです。

上の4人は唱えればいい。
下の2人に関しては、もはや座ってればいい。
その中に一回だけ唱えればいいとか、踊りながら唱えようぜ!という流派もあるから驚きです。笑

建武の新政

元寇の後から、鎌倉幕府の「御恩と奉公」の関係は崩れ始めます。

今までは、日本国内での争いだったため、勝利をおさめれば負けた側の領地をもらうことができました。しかし、元寇の場合には、攻めてくる相手を追い払う防衛戦だったため、勝利した後に渡せる領地はありません。
命がけで戦ったにも関わらず、御恩(褒賞)がほとんどなかったため、武士たちの間で不満が募っていったのです。

その頃、朝廷側の後醍醐天皇は
「武士は、もともと俺らに使われてたボディーガードのくせに、、、が偉そうにしやがって、、、」と思っており、政権を朝廷側に取り戻すチャンスをうかがっていました。
以前の貴族中心の政治に戻したかったのですね。

また同じ頃、悪党と呼ばれていた、楠木正成という幕府に属さない武士がいました。
この楠木正成はかなり強烈でおもしろい人物です。
楠木は何度も幕府をつぶそうと考えていて、多額の懸賞金がかけられていた。(ワンピースの世界にある、あの懸賞金です!)千早城(ちはやじょう)にいると、たくさんの武士が首をとろうと城を囲むのですが、楠木の戦い方は普通の武士の戦い方とは違い、かなりトリッキー。
たいまつ投げた後に、油をまいたり、動物の糞尿をまいたりと、まるで学生運動のような野性的な戦い方でした。

後醍醐天皇のもとに、「後に室町幕府を開くことになる足利尊氏」や「悪党の楠木正成」集まり、北条氏を倒したのでした。

そして、政権は幕府から朝廷側に戻ったのです。
この出来事を建武の新政と言います。

足利尊氏が室町幕府を開く

建武の新政により、天皇の政治に戻りました。
しかし、貴族中心の政治に戻そうとした結果、すぐに武士たちの反感をかってしまいます。
足利尊氏の元に武士たちが集まり、天皇の追い出します。

ところが、朝廷軍を破った足利尊氏が京都に光明天皇を立てると、後醍醐天皇は奈良に逃げ「我こそが天皇だ」と宣言し、京都の朝廷=北朝と吉野(奈良県)の朝廷=南朝という天皇が二人いるという異常事態となりました。、

そして、北が尊氏、南が後醍醐天皇に分かれて、南北朝時代となります。

(中国でも南北朝時代があったように、日本でも同じように政府がふたつに分かれた状態になりました。)

3代将軍 足利義満

この南北朝時代、なんと60年も続きました。
60年間も朝廷が争い続けている状態だったのです。

そして、3代将軍義満が
「争いつづけるのはもうやめませんか?朝廷をひとつにして、今回は北朝が天皇として、次の天皇は南朝側がつくといるのでどうでしょう?」という提案をし、南北に分かれていた朝廷が1つにまとまったのです。


平安時代は、源氏物語や寝殿造りのような貴族の文化。

鎌倉時代は、金剛力士像を代表とする「武士の力強さ」が目立つような文化。

室町時代には、朝廷が京都の近くにあることから、貴族と武士の交流があり、「貴族の優雅さ」と「武士の力強さ」武家と公家が混ざった文化が発展しました。
武士の居住形式に寝殿造りを取り入れ、華やかな見た目である金閣寺はその代表的なものです。

8代将軍義政

銀閣寺をつくった8代将軍の義政は政治に興味がなく、芸術を好んでいたといわれています。

当時、義政と奥さんの日野富子との間に男の子は生まれず、次の将軍は義政の弟の「義視(よしみ)」が行うことになっていました。

ところが、日野富子が男の子を出産します。すると、弟の義視が次の天皇だと決まっていたのにも関わらず、自分の子を天皇にしたいと日野富子は言い出します。

そこで、次の天皇を決める後継ぎ争いに、有力な武士たちが巻き込まれていき起きたのが「応仁の乱」だったのです。

室町幕府はここから大きく乱れてしまい、戦国時代に突入していきます。

織田信長

信長はバイオレンス&イノベーションの人でした。

【①軍事改革】

当時、兵隊の多くは農民が農作業をやりながら、戦をしていました。
(そのため、冬にかけて戦が多かったそうです)
それを「兵士」と「農民」を分けて、いつでも戦える傭兵(お金で雇われた兵士)の集団をつくったのが信長だったのです。
また日本で初めて鉄砲を取り入れた戦をしたのも信長なのです。

【②仏教の弾圧】

浄土真宗などの、念仏を唱えれば救われるといった民衆に優しい、新しい仏教が流行し、信者もかなり多くいました。
仏教徒も他の地域の農民と同じで、武装集団となっていました。
戦のために城も持っている力のある集団。
その集団で一揆を起こし、加賀(石川県)の守護大名を倒し100年間自治を行っていました。

他の武士たちもその勢力を弱めたいと思っていましたが、仏教の集団ですので、呪われると思うと攻めずたかったのです。
(神社のお守りとかって、なんか捨てずらくないですか?そういう感覚だと思います。)
しかし、信長は気にせずに、お寺ごと焼き払ったのです。
これも、今までは他の人物がやってこなかったことです。

【③成果主義の人事】

今までの朝廷や武家政権は、会社でいう「年功序列」のようなものがあり、前からいた人や昔から付き合いのある人間が幹部として残っていました。
しかし、信長は成果を上げる人間は若かったり、付き合いが長くなくても重要なポジションに就かせ、古参でも成果を上げてない人間は首にするという人事をしていたのです。

豊臣秀吉

秀吉は一言でいうとスピードとコミュニケーションの人です。

①本能寺の変の直後、中国地方で戦っていた秀吉は、信長が亡くなったことを相手に伝えずに戦の中止する話し合いをし、すぐに引き返して明智を討ちました。
判断力の早さと交渉力があったからこそ、明智軍のもとに一番早くかけつけることができたのです。

②清須会議は信長の次の将軍を決める会議でした。
次の将軍は信長の兄弟になるといわれていました。
しかし、会議に参加する大名に前もって根回しをすること、次の将軍を「信長の息子」にしたそうです。将来を見越して昔から信長の子と仲良くなっておいたことを利用し、後から実権を握ろうとしたのです。


③朝廷の力を借りる

徳川氏と争っていたが、武力で倒すのは難しい状況でした。
そこで秀吉は、朝廷と仲良くなり関白という朝廷内の重要ポジションを手に入れることで、この状況を打開しました。

朝廷としての立場を使うことで、「民の平和のためにも争いをやめよう!武家としての力と朝廷としての権力を持つ私に任せてもらうことが、この国の民衆のためだ」としました。

その結果、徳川氏もと秀吉の言うことを聞かざるおえなくなり、豊臣秀吉が全国を統一しました。

信長の側近であった秀吉は、信長が途中で終わったしまった日本統一を成し遂げます。

その後、秀吉はアジア圏も自分たちの領土にしようと、朝鮮にも出兵しましたがうまくいかず、2度目の朝鮮出兵を行っていたころに亡くなりました。

徳川家康

徳川氏は武士と農民、両方の監視をおこないました。

【武士の配置】

親藩・・・徳川家の親戚一族
譜代大名・・・関ヶ原の戦いより前から徳川家に仕えた大名
外様大名・・・関ヶ原の戦いの後から徳川家に仕えた大名
大名を三つに分けます。
そして、信頼のある親藩を江戸や要所に配置し、譜代大名はその周辺、外様大名は遠くに配置することにより、謀反が起きにくい配置にしたのです。

【参勤交代】

戦国時代のような、戦の多い状態になってしまったのは、武士や農民、仏教徒がそれぞれ力をつけてしまったことが要因の一つです。
武士の勢力を削ぐために、毎年自分の領地と江戸を往復させたのです。
大名はみな江戸に人質として妻子を置いておかなけらばならないため、必ず参加せざる負えませんでした。

【一国一城令】

「一つの藩(国)には一つしか城を造ってはいけない」という法律を出しました。城を持つことは、戦になった時に有利になることを意味するために出されたのです。
(現在でいう、それぞれの国は核をもつ量を決まり通りにしないといけない、核兵器を勝手に作ったり持ったりしてはいけないという「核非拡散条約」のようなものです)


【土地売買禁止令と分割相続禁止令】

歴史をただると、公地公民制が崩れ、農民が私有地を持ったことから、武装する農民を生み出し、武士となっていったわけです。
土地の売買と相続を禁止することで、有力なものが土地や力を持つことを防ぐことができるというわけです。

【五人組】

農民が五人で一つのグループとして、なにか問題を起こすと全員の責任となる仕組みを作りました。
こうすることでお互いがお互いを監視することで、年貢を徴収しやすくなりますし、反乱もおきにくくなります。

徳川家康は歴史に基づいた、非常に合理的な管理を行っていたのです。
これらの制度が非常に国を統制するためにすぐれた制度だったため、江戸幕府は260年間も続いたのです。

江戸時代の流れ

※ここの部分は「中学歴史が面白いほどわかる」の内容も多く取り入れています。

【徳川綱吉(5代将軍)】
「生類憐みの令」で世間は混乱。小判の純金の含有率を下げ、小判をすりまくり、お金の価値が下がり物価が高騰。またも混乱。

【新井白石(6代将軍の学問の先生)】
綱吉のときに下がった小判の純金率を元にもどして、経済を立て直そうとしたが、急にやり過ぎたため、またも混乱した。

【徳川吉宗(8代将軍):「享保の改革」】
・公事方御定書という、裁判の基準となるものを作る。
・多く税を納めれば、参勤交代の期間を短くできるという「上米の制」
・民衆の意見を聞くための目安箱を設置
・飢饉が起きている中で、新田開発をすすめたり、年貢の取り方をあらためるなどし、米の価格を安定させ、「米将軍」と呼ばれる
徳川吉宗は、すごくいい政治をしたと歴史上評価されています。

【田沼意次(10代将軍の老中)】

株仲間の廃止など、商業の発展に努めた。商業を重視する政治であるため、農民からは評判が悪かった。そのときに、天明の飢饉、翌年の浅間山噴火による天候不順が起きる。
そのため、米の価格が高騰し、各地で一揆や米商人を襲う打ちこわしが起きた。

【松平定信 (吉宗の孫)「寛政の改革」】
田沼意次の政治の反省から、農業中心にする政治に変える。
倹約令を出し、ぜいたくを禁止したり、出版や政治批判を取り締まったため人々の反感をかう。
とにかく取り締まりの厳しい、堅苦しい改革であったため、贅沢を好む当時の将軍であった家斉と対立し、やめることになる。

【徳川家斉(11代将軍)】
財政のことはお構いなし。奥さん40人いて、55人子供産む。浪費しまくる。役人たちも贅沢して財政はボロボロとなった。

【水野忠邦「天保の改革」】 
厳しくして、財政を立て直そうとしたが、家斉の影響で緩みまくった役人たちの反感かって、失脚。

ペリー来航

いよいよ、江戸幕府の終わりのはじまりであるペリーが来航します。
そもそも、なぜペリーは日本に来航したか知っていますか?
「日本と貿易したったからじゃないの?」と思われる方も多いでしょう。
しかし、本当の理由は「停泊地が欲しかったから」だったのです。

アメリカは産業革命の影響を受け、工業国となっていきました。
工場には油が必要です。当時は油をクジラから取っていたのため、とにかくたくさんの捕鯨をする必要がありました。そのために、アメリカ近海だけでなく太平洋の日本付近まで船を出そうとしており、その際の停泊地が欲しかったのです。
また、貿易については「日本との貿易」よりも「清との貿易」を行いたかったため、そのための停泊地としても日本の開港が必要でした。

大政奉還

その後、アメリカとの不平等条約を結び、幕府への不満が高まっていました。
そんな中、井伊直弼が幕府の体制を悪く言う人々を次々に処刑してしまう。
このことにより、さらに幕府への不満は高まり、政権を朝廷に戻し新しい国づくりをするべきだという風潮が高まっていきました。

米の不作により、百姓一揆や打ちこわしも頻繁に起こっている状態。

江戸時代の秩序が乱れて不安になった人々が「ええじゃないか」といいいながら群衆で踊り歩くのが各地で大流行。
ここまでくると、江戸も末期だと思いますよね(笑)

そこで、16代将軍の徳川慶喜は政権を朝廷に返しました。
これが大政奉還です。

幕府軍は城を攻められて降伏したわけではなく、戦う前に城を明け渡しました。
もちろん勝ち目がなかったというのがありますが、自ら政権を返すことにより、新政府になったあとにも政治権力を持ちつづけようと目論んだのです。

しかし、先手を打った倒幕派が朝廷を動かし、王政復古の大号令が出されました。そして、大名たちの官職はなくなり、領地も国のもとに返還され、幕府側の政治的な影響力はなくなってしまいます。

戊辰戦争

しかし、先手を打った倒幕派が朝廷を動かし、王政復古の大号令が出されました。そして、大名たちの官職はなくなり、領地も国のもとに返還され、幕府側の政治的な影響力はなくなってしまいます。

これに不満を持った大名たちが集まり、新政府軍と戦争になります。

薩英同盟で手に入れた、西洋式の武器と軍隊を持つ新政府軍。
京都からはじまった戦ですが、旧幕府軍に勝ち目はありません。
旧幕府軍は戦いながらも、北へ北へと逃げざるおえなくなり、最終的には函館の五稜郭で戦いを終えました。

京都からはじまった、この一連の戦いが戊辰戦争です。

ここでついに、1000年以上も世に影響を与え続けた武士の時代が終わりました。

ここから、今の私たちの生活の原型となる明治時代の幕開けとなります。

文明開化

洋服やコートを着る人が増え、牛肉、パン、牛乳が食べられるようになったり、街の様子も江戸ではレンガ造りの建物、ランプ、ガス灯が並ぶようになりました。

「一日を24時間、一週間を7日とする太陽暦」
「小学校教育を国民全員が受ける学制」
「税金を現金で徴収する地租改正」
「公家や大名は華族、武士は士族、百姓や町民は平民する身分制度の廃止」など、今の日本の制度の基本となる部分はこの時に作られました。

「藩」から「県」に変わる、江戸から東京に変わったのもこの時からです。

留学組VS留守組

岩倉具視、伊藤博文、大久保利通、木戸孝允らの岩倉使節団ができたばかりの世界一周のルートを利用して、海外を視察しに行きます。昔でいう「遣唐使」のようなものですね。

外国を見て回って、大きなカルチャーショックを受けるわけです。
産業革命により、アメリカやヨーロッパは日本と比べものにならないくらい進んでいたわけです。

この時に、留守組だった西郷隆盛と板垣退助は「武力で朝鮮を開国させるため、兵を出すべき」としますが、海外を見てきてた留学組は「そんなことより、国内を整えて近代式の軍隊作らないと他の国が攻めて来られても、負けてしまう・・・」と主張します。

その後、西郷隆盛は武力によって、板垣退助は言論によって政府と対立することとなります。

武士のラスト

武士は身分制度の廃止により、特権であった米の配給はなくなり、刀を持ち歩くことも禁止されてしまします。

また、廃藩置県により大名の護衛や藩内の治安維持の役割もなくなります。

さらに、徴兵令により20歳以上の男子全員に兵役の義務が課されます。成人男子はみな兵隊ということです。これにより、武士の特権である「戦」も特別なものではなくなりました。

さらに1876には士族に与えていた最低限の生活保証金である「秩禄」が廃止され、刀の所持そのものを禁止とする廃刀令が出されました。
政府側は、もともと武士の反乱をおさえるために「秩禄」や「刀の所持」を認めていたわけですが、軍隊が整ってきたことで強気に出れるようになったのですね。

これにより、武士の不満が爆発し、各地で反乱が起きます。
そして、翌年。
西郷隆盛を主導者として、西南戦争が起きます。
半年にも及ぶ、士族による最大の反乱です。

相手は、もともと農民だったものがほとんどであり、戊辰戦争を経験していた士族軍は政府軍を見下していました。
しかし、兵士がいくら強くても武器が違えば勝敗も変わります。

西南戦争に敗れ、侍は姿を消したのでした。

イギリスの影響

あまり知られていませんが、薩摩藩とイギリスは昔、戦争をしているのです。参勤交代の時に、イギリス人が通りかかったところを薩摩藩の武士が殺害したことで、イギリスが戦艦で薩摩藩に砲撃しました。
そのときに、薩摩藩は「ヨーロッパは強すぎる・・・このままでは、まずい・・・」と感じ、討幕へとつながったのです。

日露戦争は「ロシアに中国の領地を取られると嫌だな・・・よし、日本を援護して、日本に戦ってもらおう。」
そんなイギリスの思惑の元、日英同盟を結び、そこから戦争がスタートしています。

第一次世界大戦も、日英同盟があったからこそ日本も参戦することになっています。

そう、日本はイギリスの影響を江戸の末期からずっと受け続けていたのです。

そもそも、産業革命もイギリスからはじまっていますし、産業革命により油が必要なアメリカが、捕鯨船の船舶地として日本に開国を迫ったわけですし。

日本に影響を与えた国は?と言われると「アメリカ」「中国」を思い浮かべるは多いですが、「イギリス」をすぐに思い浮かべる人はなかなかいないと思います。しかし、イギリスはアメリカや中国と同等に、多大な影響を日本に与えた国なのです。

4つの恐慌が次と襲う

第一次世界大戦の時には、特需景気(戦争の武器を造り、輸出することにより、景気が良い状態)になりました。
お札に火をつけて「ほら、これで明るくなっただろ?」という人まで出てきます。この時に「成金」という言葉が生まれました。

しかし、ここから大きな恐慌が日本を次々と襲います。

【戦後恐慌】
→戦争に使う武器を造って、海外に売っていたので儲かっていったが、戦争がなくなり、売れなくなり、景気が悪くなる

【震災恐慌】

関東大震災によって、東京が壊滅。それにより、また景気が悪くなる

【金融恐慌】

政治家の失言などにより、恐慌になる

【昭和恐慌】

世界恐慌により、海外との貿易が減る

これらの恐慌が4つも一気に起きてしまったのです。
日本の政治と経済はボロボロな状態。
これらの恐慌があり、日本は戦争へと進んでしまうのです。

明治~戦前の政治制度

【藩閥政治】

もともと、薩摩藩と長州藩がイギリスから力を借りて幕府を降参させた。その功労者である薩長の有力な人物で政治を行ったのが藩閥政治。
先進国の国家体制を整えなければ不平等条約を撤廃できず、列強として扱われることがないため、君主権の強いドイツの政治をまねて作った。ここで天皇を絶対的な権力者とした。

【政党政治】

→国民の意見を聞いて、政治をしよう。国民が選挙で選んだ人が国会で話あって政治を決めようとするもの。
途中から「藩閥の人が中心の内閣」と、「選挙で選ばれた人中心の内閣」が交互に政治を行うようになった。
(今まで総理大臣は薩摩藩か長州藩出身の人がなっていた中、どちらの藩の出身でもない「原敬」が普通選挙で選ばれ、総理にまでなったのを「本格的な政党内閣」と言います。)

【軍部政治】

恐慌が続く中で、「政党政治は全然ダメだと。役に立たない。軍が仕切った方がいい」という世論が広がった。
軍の人間が総理大臣を暗殺し、軍部が政治を行うようになる。

(軍が武力でやったことは確かですが、世論が政党政治がだめになっているなか、軍を支持をして起きたこととも言えます)

https://youtu.be/vJQAaL0IyiQ

戦後改革

戦争が終わった後、マッカーサー率いるGHQにより、今の日本の制度に変わりました。

【教育基本法】
→小学校6年間と中学3年間が義務教育になる。
(ちなみに、戦前は国が作った教科書をすべての学校が使っていたが、この時から民間企業の教科書を使うようになりました。そのため、教科書は東京書籍や啓林館など、学校によって違う教科書を使っているのです。)

【労働基準法】
→8時間労働制や男女で賃金の差をつけてはいけないという決まり

【日本国憲法】
→国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の原則になる。
(11/3(文化の日)は「憲法が発表された日」、5/3(憲法記念日)は「憲法が施行された日」として祝日になっています。)

【選挙法の改正】
→20歳以上の男女に選挙権が与えられた(2016年から18歳以上の男女に変わっています。)

今、当たり前すぎてなんとも思っていないこうした決まりは、この時に作られていったのです。

資本主義VS社会主義の冷戦

【朝鮮戦争】

→朝鮮は植民地から解放されましたが、南をアメリカが、北をロシアが軍を置くことで、大韓民国(韓国)、北を朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)として分断されていました。

【キューバ危機】

ソ連がキューバに軍事基地をつくり、ミサイルを持ち込もうとした計画がアメリカ軍に知られたため、アメリカとロシアの核戦争となる第3次世界大戦が起きる可能性が浮上しました。
(キューバはアメリカのすぐ南ですから、そこに軍事基地とミサイルがあれば、そりゃケンカになりますよね。。。)
結局、ソ連がミサイルに撤去を発表したことで、戦争の危機を脱しました。

【ドイツ分断】

アメリカやイギリスなどの占領地である西ドイツは資本主義に、ソ連の占領地であった東ドイツは共産主義となり、同じ国の中でも別々の体制となます。
東ドイツは西側からの攻撃を防ぐという建前で「ベルリンの壁」を造ります。(本音は西側への人口流出を防ぐためです。壁を作るまでは毎日2000人程度の国民が東ドイツから去っていました。)

【ベトナム戦争】

インドシナ戦争は1次、2次、3次とありますが、第二次インドシナ戦争=ベトナム戦争です。

ベトナム戦争は、表面的には「北ベトナム軍」と「南ベトナム軍」の戦いでした。
しかし、その背景には、南ベトナムにはアメリカ軍が送り込まれ、韓国やオーストラリアなどの資本主義国が物資などの援助をおこないます。
それに対し北ベトナム、はソ連や中国が物資支援や軍事顧問団の派遣をおこないました。

「資本主義陣営」VS「社会主義陣営」の戦争だったのです。

なぜ、アメリカとソ連で代理戦争までしているのかというと、一言でいえば「自国の利益のため」です。
たとえば、世界の主流が資本主義になれば、アメリカはその分商売できる国やその額が増え経済的に豊かになれますし、「資本主義を広めたリーダー」としてのポジションを持つことができます。それに、社会主義の勢力が弱まれば、その分国内でも資本主義に異議を唱える人々は減るでしょう。

逆に、ソ連側とすれば、世界中が社会主義になれば「社会主義を広めたリーダー」としのポジションを持つことができますし、国内で資本主義を唱える人が少なくなる分、国民を統制しやすくなるのです。

冷戦の終結

資本主義が勝利したわけです。
1980年代になると、ソ連の経済はピンチにおちいります。
そこで、ゴルバチョフは社会主義の方針転換をし、市場原理を取りいれるようになり、その後、政治の自由化と民主化が行われていきました。
このソ連の動きの影響を受け、ハンガリーやポーランドでも自由な選挙が行われ、社会主義体制が終わり、冷戦のシンボルであった「ベルリンの壁」も壊されました。

アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長が44年にわたる冷戦の終結を宣言し、終わりをむかえました。